広島県福山市の未来に挑戦する枝広(えだひろ)なおきのオフィシャル・ウェブサイト

私の決意
EDAHIRO NAOKI POLICY

 
私は福山に生まれ、福山に育ちました。志を胸に大蔵省に入り、その後30年余りにわたり、国の財政を通して数々の国家プロジェクトを進めてきました。また、内閣官房では全国に特区をつくり、地域の活性化にも深くかかわってきました。退職後は民間企業の経営も経験しました。

全国の各地域がそれぞれ知恵を絞って、地域の活性化に取り組む姿を見てきた私には、新幹線から降り立った駅前の姿はとても寂しく映りました。福山に「誇り」と「輝き」を取り戻さなければいけない、そう覚悟を決めて故郷に帰ってきました。

福山は今年、市政施行100年を迎え、次なる100年のスタート地点に立っています。これからのまちづくりの方向性を決めるという極めて重要な時期に差し掛かっており、市民の幸せを実現するための確かな政策力と力強い実行力が求められています。私のリーダーシップと決断力を思う存分発揮して、次なる新しい100年の未来づくりのために、そして福山に「誇り」と「輝き」を取り戻すために、私は「挑戦」します。
プロフィール
EDAHIRO NAOKI OFFICE
 

主な経歴

昭和30年 福山市北吉津町 生まれ
昭和43年 福山市立東小学校 卒業
昭和46年 福山市立東中学校 卒業
昭和49年 広島県立福山誠之館高等学校 卒業
昭和55年 一橋大学経済学部 卒業・大蔵省 入省
昭和58年 外交官としてフィリピンに駐在
平成元年 官房副長官秘書官として内閣総理大臣官邸に勤務
平成10年 石川県総務部長
平成15年 主計局主計官(国土交通省・環境省担当)
平成21年 中国財務局長
平成23年 内閣審議官(地域活性化統合事務局長代理)
平成26年 近畿財務局長を最後に退官
平成27年 株式会社ナベショー(製鋼原料商社)の社長を務める(4月まで)

趣味

趣味 バイオリン・スポーツ・旅行・食べ歩き(B級)
尊敬する人 大平正芳・徳永豊
好きな言葉 「背伸びしていたらいつの間にか背が伸びた」
長所 ヤル気になったらとことんヤル!
短所 なかなかヤル気にならない…。
家族構成 妻と2男2女の6人家族

エピソード

  • 枝広彊・秀子の末っ子として、昭和30年福山市北吉津町に生まれました。
    2歳頃、渡邊伝七、タメノ(母方の祖父母)、家族に囲まれて。
  • 幼稚園の頃、バイオリンを乗本琢一先生に習い始めました。あの世良公則君も同じバイオリン教室にいました。福山音楽コンクールにも出場しました。乗本先生は人生の師となり、バイオリンは生涯の趣味となりました。
  • 東小学校を卒業しました。体育と音楽の得意な腕白少年でした。
    リレー代表として出場した市の大会ではバトンリレーに失敗したり、代表として出場した市ソフトボール大会では私のエラーでサヨナラ敗けするなどほろ苦い思い出も残る小学校時代です。
    ※集合写真の私の左は、宇田伸さん(現広島県議会議長)です。
  • 東中学校(ドン中)を卒業しました。剣道に熱中しました。県大会では個人戦に出場、一回戦延長敗けしましたが、相手は個人優勝した強豪でした。
  • 2年生で生徒会副会長を務めました。
  • 広島県立福山誠之館高校を卒業しました。校名は「誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり」に由来します。誠の心とそれを実践する大切さを学びました。
  • 「文武両道」が奨励され、毎月クラス対抗のスポーツ大会で汗を流しました。
  • 誠之館での三年間は、私の人格形成に大きな影響を与え、誠之館魂は、困難に直面した時の心の大きな支えになりました。
  • 一橋大学受験に失敗。恩師の草原先生(英文法)からは「そうか。あんたは生活が乱れとったからネェ。」と一言。返す言葉もありませんでした。
  • 一念発起して、東京の予備校で寮生活を送りました。寮長の話す言葉に懐かしいナマリがあると思ったら、何と、誠之館の先輩でした。
  • 今では盟友となった菅田博文君(枝広なおき後援会長・テラル株式会社社長)が偶然にも同じ寮にいました。
  • 草原先生の言葉に従い、生まれ変わったように規則正しい毎日を過ごしました。そして一橋大学に合格しました。
  • 大学近くの天ぷら屋の2階で、備後出身の先輩達が新入生を歓迎する会が開かれ、私も呼ばれました。宇田伸さん(広島県議会議長)も新入生の中にいました。
  • 先輩大学生の中に牢名主のようなひときわ存在感を放つ人がいました。誠之館出身の若林辰雄さん(三菱UFJ信託銀行会長)です。誕生日が同じで、久しぶりの誠之館からの新入生ということで弟のように可愛がっていただきました。
  • 大学に入学した気の緩みから、再び酒と麻雀の乱れた日々が始まります。
  • 管弦楽団に所属し、コンサートマスターを務めました。定期演奏会でのドヴォルザークの交響曲8番2楽章のソロは今思い出しても冷や汗ものです。
  • ゼミでは、経済成長論の泰斗、荒憲治郎先生に師事しました。とても厳しいゼミでしたが、麻雀の大好きな先生に大変可愛がってもらいました。「芸は身を助ける」です。
  • 再び一念発起して、国家公務員試験(経済職)に挑戦しました。日頃の不勉強がたたり、大変苦労しましたが、徹夜麻雀で鍛えた体力で猛勉強し、何とか合格することが出来ました。「背伸びしていたら、いつの間にか背が伸びた」というのが実感です。時には背伸びすることも大切ですね。
  • 昭和55年、大蔵省入省。配属された主計局総務課は、いわば国の予算編成の司令塔です。12月の予算編成時期には250時間を超える残業も経験しました。
  • 27歳(入省3年目)でフィリピンの日本国大使館に、財務金融担当書記官として勤務。妻・真澄との新婚生活を海外で過ごすことになりました。
    日本を代表して任国の大蔵大臣や中央銀行総裁と直接会い、500億円を超えるODA(政府開発援助)を取りまとめました。
  • 自宅にはプールとヤシの木が3本。子供の日には、日本から持ってきた鯉のぼりが高いヤシの木に泳ぎました。
  • 人民革命を経験することになります。独裁者マルコス大統領も、自由と民主主義を求める人民の力に負け、イメルダ夫人とともにマラカニアン宮殿からハワイに亡命したのでした。
  • 平成元年、官房副長官秘書官として総理大臣官邸に勤務しました。官房副長官は大島理森衆議院議長(現在)でした。
  • 平成8年、石川県庁勤務。古都金沢の伝統文化、白山の自然、能登の豊かな食など、北陸の魅力が満載の地域です。
    1年目の企画開発部長時代は能登空港建設に、2年目の商工労働部長時代は繊維・機械の地場産業と観光の振興に、3年目の総務部長時代は県予算編成に汗をかきました。
  • 平成15年、主計局主計官として国家プロジェクトである整備新幹線予算を担当しました。役人人生で一番やりがいのある時期でした。
  • 平成19年、地方分権改革推進委員会事務局次長として、国と地方の役割分担について学びました。委員にはあの猪瀬直樹氏(後の東京都知事)もいました。
  • 平成21年、中国財務局長として広島に勤務しました。故郷福山の中小企業の底力と都市としての発展可能性を実感しました。
  • 平成23年、内閣審議官・地域活性化統合事務局長代理として、全国の地方創生の取り組みを知りました。北海道を始め、全国に特区を立ち上げました。
  • 平成26年、近畿財務局長を最後に、35年間にわたる公務員生活を終えました。
  • 同年8月に、(株)ナベショーに入社(製鋼原料商社)。9月には社長(取締役兼COO)就任。
    民間企業の経営を学んだことは、とても貴重な経験となりました。